東京都調査業協会 城北支部

社団法人日本調査業協会

東京都調査業協会 城北支部
The Castle North Branch of the Tokyo Metropolitan Investigation Service Association.


探偵・興信所・調査業の歴史



調査が業として確立される以前の状況については、必ずしも明確ではないが、それでも現在の調査業に関係のある部分が存在している面が多く見られる。

有史前から江戸時代

神話時代は、情報蒐集の専門家を「志能便」といった。戦国時代、戦国武将は、戦術の必要上組織の中に情報蒐集部門を置くと共に、専門の忍びの者を雇っていた。

また、専門家ではないが、情報蒐集に関係深い業を持った人間を間接的情報蒐集者としていた。専門的「忍びの者」ができた背景には、知的エリートであった僧侶の存在があり、山岳宗教における「修験者の山伏」等がその起源となっている。

その後、山岳地帯に勢力を伸ばした集団が、平地でも勢力を得、武将・豪族等と手を組むと共に、独自のネットをフルに活用し、敵の秘密情報を蒐集し、戦術を指導した。

江戸時代に入り徳川幕府によって、封建制度が確立されるに及び、徳川幕府は隠密制度を行った。代官に天下百姓(天領府地に住む潜在者)を使い、情報蒐集を行っていた。この天下百姓は機密書を貰って探査にあたっていたので、出入り探題を数十名擁していた。

当時の出入り探題制度は厳格だったので、一度失敗するとお役御免となり、生活の道を絶たれた。その多くは他の土地に移り、今までの経験を生かし民間の調査業兼コンサルタント業を開業した。

彼らは、藩の重役や豪商と関係を持ち代物収益を上げていた。当時の名称は次のとおり。

ア 万難報施修処
イ 万探題処
ウ 難究探題処
エ 間知講談請
オ 万相議処

これらが調査機関としても活躍したことは歴史的事実であり、小説等においても取り上げられている。


明治以降、第二次大戦まで

明治維新により明治政府が樹立され、諸新制度が打ち出されたが、治安は必ずしも安定的でなく、各地にテロや暴動が頻発した。そのため、明治政府は情報蒐集と問題処理のため密偵を配備した。この頃より探偵という言葉が世上現れ始め、民間の密偵探偵機関も改めて出現した。やがて産業が振興し、株式会社や証券取引所が活発化し、企業信用が産業発展の重要ポイントとなってきたため、いわゆる興信所が次々と設立され一大発展期を迎えるに至った。

明治25年
(1892年)

4月 大阪に商業興信所(当時日本銀行理事の外山修三が設立、日銀と大阪の銀行団が出資したもので半官半民的であった。)設立。

8月 東京に、海外視察より帰国した白鳥敬之助が商工社(後東京商工興信所、現東京商工リサーチ)設立。近代調査業のルーツといわれている。

同28年 岩井三郎事務所設立(日本の私立探偵の草分け)
同29年 第一銀行頭取渋沢栄一による東京興信所(日銀と東京の銀行団が組織)設立
同33年 後藤武夫が帝国興信所(現在の帝国データバンク)開設
同35年 内尾直二が人事興信所設立
同39年 藤山雷太が東京商業興信所創立
同43年 信用告知業取締規制が施行される。(大阪府)※戦後の法改正とともに廃止
大正5年 帝国秘密探偵社設立

昭和19年、商業興信所と東京興信所が合併し東亜興信所となる。その後、戦争激化で興信所業務はすべて中止されたが、その時点で約30の興信所が存在した。

黎明期を飾るこれらの興信所は、経済の発展と振興に不可欠な機関として自らその存在を盛んにPRしたが、世間の反応は冷ややかであった。欧米並みの資本主義形成の気運はあったものの、暖簾と信用を重んじる日本独自の商業道徳の世界からはなかなか受け入れてもらえなかった。結局、信用録や紳士録といった出版事業が事業の大半を占めるようになり、それは昭和40年前後まで続いた。


第二次大戦終了より現在まで

大戦後、人間の地域固定制が流動的なものに変化したこともあり、興信所・探偵社が急成長し、戦後は四大興信所(テイコー・ショーコー・ジンコー・テイタン)は数十カ所の事業所と社員1,000人を超えるほどになった。

しかし、社会が高度化すると共に、人権尊重意識やプライバシー意識が高揚され、調査業が社会的諸問題を惹起するような事件が起こった。

昭和51年5月の衆議院法務委員会で、興信所の実態を把握し登録制にすべきではないかという質問がなされたが、稲葉修法務大臣は「人権侵害が興信所によって行われたり、そのおそれがあることは想像できる。平穏な国民の社会生活を脅かす行き過ぎは、営業の自由とはいえあってはならない。実態を把握して登録制を検討したい」との答弁がなされた。

昭和55年2月の衆議院予算委員会で自治省行政局は、「住民基本台帳の閲覧制限を検討したい」と言明している。

このような社会情勢にあって、営業形態を転換したりする会社が増え出した。社会の変化に対応して、興信所・探偵社という「負のイメージ」から脱し方向転換を図ろうというものだ。

昭和56年3月には、帝国興信所が「帝国データバンク」と改め、人事調査部門の廃止を決定した。

また、このようななかで人事代行、損保リサーチ、生保リサーチなど、調査業界の中で新たな勢力も起こってきた。一方、同和問題が業界に大きな影響を与えるようになり、これが各種協会団体の設立運動の芽生えとなった。

昭和20年 敗戦後、5年ほどの間に探偵社や興信所が急増する。
(復員兵、旧特務機関員、公職追放となった憲兵、浪人、前科者など、引退した第34代横綱男女ノ川も高円寺で開業したほどである。)
昭和37年 協会の結成の動きが生まれる。調査業務に従事するものに対する国家試験制度創設に関する具申書(内閣総理大臣に提出、警察庁に回付)
昭和43年 協会結成運動が起こる。
(現帝国データバンク、現東京商工リサーチ、現テイタン等の参加了承を得たが、反発も多く、不成功に終わる。)
昭和49年12月 日本探偵協会・探偵警備士養成所の児玉道尚校長の呼びかけにより、全国から50名もの探偵が新宿に集合、調査業者の団体結成(統一的な組織)の会合が開かれる。
昭和50年10月19日 日本調査機関連盟設立。初代会長に武内義雄氏、幹部に本田治氏、小林宏氏などが就任。しかし、2年後の夏には内部分裂、その後、関西では日本調査機関連盟近畿本部が結成される。
昭和52年11月 全国調査網連絡協議会を再組織。初代会長に武内義雄氏就任。
昭和54年5月 日本調査協会設立。初代会長に廣嶋澄雄氏就任。
昭和55年4月 日本調友会設立。初代会長に蓮見哲次郎氏が会長に就任。
昭和58年2月 大阪府が調査業に対する条例制定の意向を表明。
昭和58年3月 四団体(日本調査機関連盟、全国調査機関連盟、旧日本調査業協会、日本調友会)の一本化を目指す、全国調査業団体連絡協議会が発足。
昭和59年7月 大阪条例制定に対する、四団体一本化による反対運動。
昭和59年9月 四団体の支援により大阪府調査業協会設立。初代会長に廣嶋澄雄氏就任。
昭和60年1月12日 大阪府調査業協会が社団法人となる。
昭和60年2月 四団体一本化準備委員会結成、国会及び自治省と法律改正に関連する直接交渉を行う。
昭和60年5月 その結果、正式な交渉団体として自治省より指定を受ける。
昭和60年10月 大阪府条例発効(大阪府部落差別事象に係る調査業等に関する条例
昭和60年12月 調査業は国家公安委員会警察庁の所管となる。(警察庁より正式通告)
昭和61年2月 警察庁と四団体(日本調査機関連盟、全国調査機関連盟、旧日本調査業協会、日本調友会)との正式会合開催。一本化の行政指導を受ける。また、将来の法制化等の展望を伝えられる。
昭和61年5月24日 四団体一本化による日本調査業協会を設立、初代会長に木村正一氏就任。
昭和61年10月 大阪府条例発効(大阪府部落差別事象に係る調査業等の規則に関する条例
昭和61年10月3日 日本調査業協会東京支部結成。初代支部長に廣嶋澄雄氏、事務局を千代田区飯田橋に設置する。(当時の会員数は114)
昭和62年9月25日 警察庁の指導により、単一協会から連合会方式となり、日本調査業協会東京支部は「東京都調査業協会」と名称を変更する。
会長 廣嶋澄雄氏
副会長 武藤三男氏、佐藤みどり氏、屋仲正剛氏
専務理事 越弘樹氏
昭和63年9月5日 日本調査業協会は16の単位協会の全国連合組織となり社団法人の許可を得る。初代会長に木村正一氏就任。
平成元年10月6日 業法問題に取り組む法制化研究会を設置(後に答申書を提出)
平成11年3月30日 国会の地方行政委員会にて自民党衆議院議員、平沢勝栄氏が警視庁生活安全局長の小林奉文氏に「調査業法」の必要性を質問する。(国会初の質疑応答の実現)
平成15年5月 個人情報の保護に関する法律(個人情報保護法)が国会で可決・成立され、一部が施行される。
平成16年10月 個人情報保護法第8条の規定に基づき、「国家公安委員会が所管する事業を行う者等が講ずべき個人情報の保護のための措置に関する指針」が、国家公安委員会から告示される。
平成17年2月 個人情報保護法の施行にあたり、警察庁生活安全局は「興信所業者が講ずべき個人情報保護のための措置の特例に関する指針」を策定する。
平成17年4月 個人情報保護法が全面施行。
平成18年6月 探偵業の業務の適正化に関する法律(探偵業法)が国会通過。
平成19年6月1日 探偵業法施行


外国の調査業の歴史

いわゆるビジネスとしての興信所は、産業革命期のイギリスから始まったといわれており、その後近代国家を中心に広がっていった。しかしながら、当初はまともな商売ではなかったようで、イギリスのジョナサン・ワイルドは、窃盗団のボスとして君臨する裏で、その盗難品の行方を探偵するといったマッチポンプ屋であったと伝えられている。

また、それより一世紀後に活躍した私立探偵の元祖といわれているフランスのユージェーヌ・フランソワ・ヴィドックも詐欺と窃盗、恐喝の常習犯であった。

晩年のヴィドックは事務所を閉じてロンドンへ流浪し、寄席で変装術を披露するなどしてかろうじて食いつないでいたが、最後は落ちぶれて飢え死にしたと伝えられている。

1749年頃 イギリス私服刑事が「バウ街の警吏」として有名になったが、彼らは私的事件を取り込んだことで、私立探偵の元祖といわれ、1800年代初期に数人の警吏が私立探偵となる。
1830年頃 イギリスに興信所ができる。
1830年頃 フランスのユージェーヌ・フランソワ・ヴィドックが私事情報業を始める。
1841年頃 アメリカに興信所ができる。ダン&ブラッドストリート社にはリンカーン大統領も働いていたことがあるので有名である。
1850年頃 ピンカートンがシカゴ私立探偵社を設立。
1857年頃 フランスに興信所ができる。
1859年 ドイツに興信所ができる。
1880年頃 ハーグレイブ探偵社設立。
1898年
(明治31年)
米ニューヨーク州で「私立探偵法」施行される。

現在、アメリカの探偵はライセンス制が一般的であり、その取得審査は非常に厳しいものとなっている。

そこでは前科、人格、見習い経験などが審査され、市民の推薦と保証が必要となり、ペーパーテストと面接に合格しなければならない。事務所を設ける際は、営業保証金を供託しなければならず、秘密厳守、虚偽報告の禁止、恐喝や権利侵害の厳禁などが規定されており、違反するとライセンスを剥奪される。

また、1970年に成立したアメリカの「公正信用報告法」は、クレジット、保険、就職などで頻繁に使われている個人信用報告書を被調査人が閲覧することができ、誤調を修正する権利を認めている。

西欧諸国においては許認可制度をとっているところが多いが、アメリカと共通していることは情報公開制度が充実しているということである。(日本では2007年にようやく届出制となったが、欧米のような情報公開制度は事実上ない。)

1925年、アメリカで 世界最大の探偵の協会となるWDA(World Association of Detectives) (http://www.wad.net/が設立された。世界中に900名ほどの会員がいる。

アメリカでは、探偵に関する法の歴史も古く、また州ごとに法律が違う。このため、広域な調査でも多州と連携を取れるようにしようというのがWDAの始まりであり、それが欧州にまで広がり、やがて国際的な団体となった。

このように、アメリカでは法の整備に伴い探偵のライセンス制度が確立されていったが、実際の業務においては警備(セキュリティー)の占める割合が年々高くなっていくのが特徴である。

危機管理の概念が1910年代の不況時にアメリカで発生し、1929年の金融恐慌に対する企業防衛に必要な危機管理(リスク・マネジメント(RM))が研究され、1930年代のデフレーション対策として保険管理型の危機管理(RM)が発達した。第二次大戦後、RMではカバーできない問題が頻発したため、広範囲に渡る危機管理(クライシス・マネジメント(CM))の概念が発生し、今日に至っている。

東西冷戦が終結し、仕事をなくした両国の諜報員たちが、世界各地に散らばり現地で調査会社を立ち上げるケースも多い。

一方、ドイツでは1914年に第一次大戦後の悪性インフレーションに対する企業防衛のための経営政策の研究成果として1915年に「企業危機論」が発表され、経営学が経済学から独立した。1945年以降、「危機政策(リジコポリティック)」として実際的よりはむしろ論理的に発展した。日本へは、1970年代に主としてアメリカから入ってきた。




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